昨年12月の半ばに、ある会で仮設住宅に断熱ブラインドを贈るにあたりそのブラインドを設置する
ボランティアの募集があり、夫婦で参加してきました。
百聞は一見にしかずといいますが、まさにその通りで想像を絶する惨状が、9か月経ってもまだ
生々しく残っていました。
それは、突然にやってきました。
宮沢賢治の故郷遠野の原風景を眺めながら山あいを抜け、同行したメンバーと楽しく会話を
しながら少々旅行気分で向かっていましたが、車のナビに登録した大槌町役場まであと2,3km
に迫ったころだったでしょうか、周囲はだいぶ開けてきてはいましたがまだ山は近くにあり海の
気配などまるでありません。

ふと、ゆがんだガードレールが目に入り、事故でもあったのかと思いながら、道路端に基礎が
見え、ああ新しい家が建っているんだなと一瞬思いました。
しかしその先を見るとずっとガードレールがひん曲がり、ハッとして道路端に目を転ずると
先ほど基礎ができていると思ったのは、上物をすべて流し去った後に残された基礎だけで
そんな景色が延々と続いているではありませんか。
不意に眼前に飛び込んできた津波の惨憺たる爪痕は、私たちを静かに待ち構え襲いかかる
ように我々の心を深くえぐり取り、皆一様にしばらく言葉を失ってしまいました。

はるか頭上3階建て屋上のフェンスが山側にひん曲がり、それ以上の波が来たことは頭では
解っても、どう表現すればいいかわからないけど体ではそれがどうしても理解できないといった
ような感じでした。
私の妻は、もし自分がこんな津波に遭遇していたら多分動くことができずに死んでいたと思う!
と確信をもって言っていたように。

いたるところ建物や、車にペンキで〇と☓の印がしてありました。まずは生存者の捜索を最優先
するため、発見されたご遺体は、まずその場所をペンキで示し、あとから回収し搬送が終わった
ことを再度示した跡なのだそうです。
その近くには、消防署や市役所の出張所があり多くの方が殉死されており、簡易に設けられた
祭壇には新しい花が手向けられ線香の香りが辺り一面に漂っていました。
9か月経った今でも、爪痕がそのまま残る現状に、悲しみや苦しみはとても和らいでいないだろう
ことが、初めてきた我々にも簡単に想像できるました。
沈黙の中で自然と皆でご冥福をお祈りし、断熱ブラインドを取付る仮設住宅へと向かいました。
後で仮設住宅の自治会長のお話を聞くと、我々でさえ胸を押しつぶされそうになった現状を毎日
眺めながら、スクールバスで仮の小学校へと通っているんだそうですが、親や兄弟の亡くなった
現場を通る苦痛に耐えきれず転向していった子どもたちがあまたいるとか。
ますます言葉もありません。

重たい気持ちを引きずりながら仮設住宅へ到着して、自治会長さんのもとへ恐る恐る伺うと
笑顔で迎えて頂き、その顔を見たときにはほんとホッとしました。ボアンティアで伺いながら
こちらが癒されていてはどうにもなりませんが・・・・・。
わずか5軒のお宅に断熱ブラインドを取付ただけで大したことはできませんでしたが、その間
被災された地元の方々とも交流することができ、貴重な経験をさせて頂きました。
義援金や物資での支援も必要だと思いますが、被災から時間が経てば経つほど物的支援
より心の痛みをどう癒してさしあげるかを考える必要があるのではないかと感じました。
義援金を送る気持ちはもちろん大事なことですが、それで終わったような気持ちになっている
とすれば、それは大きな間違いであることをまず知ることが被災していない我々の務めでは
ないかと現地を訪れて強く思いました。
自治会長さんは、手広くパン屋を営まれて学校にも卸しておられたそうですが、津波で工場
も家もすべて流されてしまったそうです。一時は、もう何もする気がしなかったそうですが、
この春完成予定の仮設店舗で仕事を再開できることになると嬉しそうに話しておられました。
開店されるときにはまた再会することを約束して帰途につきました。
暖かくなって再び訪れる日を楽しみにしているところです。

東北釜石でのこと
14
1月
2012
2012
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